2.常識

 世の中には様々な常識、定石がある。 麻雀もご多分に漏れず、常識、定石がある。 中には常識や定石を金科玉条のように敬っている奴がいるが、俺は常識、定石が大嫌いだ。
 ついでに、常識、定石こそが全てだと思っているような奴も嫌いだ。 それじゃ、三味線を弾いたり、牌山を崩したり、他家の手牌を覗いたりしてもいいのかと言えば、 もちろんそうではない。
 それは、常識、定石以前の問題で、マナーや倫理観(という程のもんじゃないが)の問題である。
 将棋や囲碁などは定石通りにやっていれば勝てることが多い (将棋は強くないし、囲碁に至ってはルールもよくわからんが)

 もちろん、麻雀についても同じことは言えるが、 セオリー通りにやってもなかなか勝率はあがらない。 セオリー通りにやって勝てるのは、相手がルールを覚えたばかりの初心者だけだ。
 初心者は確率無視で支離滅裂な打ち方をしてくるから、 確率を重視した打ち方をしていればいやでも勝てるというわけだ。
 しかし、相手がセオリーを覚え始めた初級者になるとそうそう都合よく勝てなくなる。 なぜか?簡単である。相手も確率重視で打ってくるようになるからである。
 つまり、相手も自分と同じことをやっているというわけだ。 同じ考え方をし、同じように打っていればどうなるか? それは自明だ。 五分五分の勝負になるということだ(あくまで長期的に見た場合である)。 負けもしないかわりに勝てもしないというわけである。
 そうすると、勝つのはやっぱり運の多い奴だ!! だとか、ツキのある奴だとか言い始める奴がいる(笑

 本当にそうなのか?断じて違う!!
 そこで努力が終わってるから勝てないんだよ。 そもそも確率通りにやってるのに勝てないなんてことを言う奴の心理がよく分からない (うそ。本当はなんでそんなことを思うのか、いやっていう程わかる。 要するに自分は悪くない。自分は正しい。自分は強いと思っているからだ。 その考えがそもそも間違いだということに気づかないし考えもしない。 まったく、おめでたい奴らではある)

 本当に完全に確率通りに打つことが出来てるのか?打ててないだろ?
もし、『いや、俺は完全に確率通りに打ってるよ』なんて言う奴がいたら、 医者に診てもらえ!!
 そんなこと出来てる奴なんていないんだよ。 少なくとも俺はそんな奴を見たこともないし、 そんな奴の存在を聞いたこともない!!(もちろん、かくいう俺も当然確率通りには打てない)
 だとしたら、やはり運の強い奴が勝つんじゃないのか?と思う奴がいるかもしれないがそれは違う。 セオリー通りに確率を重視して打っているつもりでも、 実は気づかないミスを連発していることが多い。
 しかも、その手のミスは他人に指摘されるか何かのきっかけで気づくまでは、 ミスをしていることにさえ気づかない。 気づかないから、確率通りに打っているつもりになれるというわけだ(まったくもって幸せ者である)

 つまり、同じ確率重視の打ち手でも、その精度において差があれば、 それが勝率の差になって現れるということである。 それでは、精度が同じであれば勝率も同じになるのか。 もちろんそうはならないだろう。
 これが馬鹿でどうしようもないコンピュータ相手なら同じ勝率になるかもしれないが、 相手は感情を持っている人間である。 確率は麻雀の一要素にすぎず、麻雀のうまさ、強さの要因は確率以外のところに起因する。
 それでは確率以上に重要なものは何かといえば、 他家の心理を読む(利用する)ことと大局観(勝負感といってもいい)である。

 では他家の心理を読む・利用するとは実際にどういうことかといえば、 一番てっとり早いものだと常識、セオリーの裏をかくということである。
 例えば、セオリー大好きでセオリーからはずれることは大嫌いだというような奴が相手であれば、 ひっかけ、先切り、地獄待ち、ノーチャンス、ワンチャンスで待ってやればホイホイ当たり牌を出してくれる。
 俗に言う待ち頃というやつである(実はもう少し打てるようになると待ち頃は待ち頃じゃなくなる。 ノーチャンスや地獄待ちは待ち頃だから、逆に切れないというような考えをして当たり牌を止めたりする。 もちろん、そういった牌を毎回とめるわけではないことは言うまでもないことである。 あくまで捨牌が臭うときだけ止めるということである。)

 待ち頃の待ちというのがなぜ存在するのかといえば、セオリーでは通りやすことになっているからである。 つまり、セオリーを逆手に取った戦術だということである。
 しかし、ひっかけや先切り、地獄待ち、ノーチャンスは待ち頃だということは今では、 セオリーではあるが。 良くセオリーを覚えたのに、セオリー通りに打っているのに勝てないと言ってる奴がいる。
 世間一般で言っているセオリーは確かに基本だし、重要であることに変わりはないが、 その通りに打って勝てる程、勝負は甘くないということである。 そんなことは誰でもやっていることだからである。
 他の人間と同じことをして、同じ考えをして、同じように打って、 勝率をあげようなんて図々しい。お笑いぐさである。

 自分にしかできない打ち方、自分にしかわからないようなセオリーを世間一般のセオリーに加味して、 ようやく初めて少し勝てるようなってくるのである (もちろんセオリーを無視してデタラメな打ち方をしろといっているわけではない)
 つまり、自分で少しはものを考えろ!!ということである。 誰かが言った通りにやっていれば勝てるという程、勝負は甘くないということである。
 少なくとも人に教わった通りのことをやり続けていても、 その教えてくれた人を越えることは絶対に不可能である。
そのやり方をより発展させた考えをするか、 逆手に取ったやり方をやらない限りは越えられないということである。
 そのためには自分で考えるしかないのである。 ただ、乗っけておくだけにしては、頭は重すぎるだろ?(笑

 つまり、言いたいことはセオリーの信奉者になるな!!ということだ。 世間一般でいわれているセオリーをセオリーだから正しいと簡単に受け止め、 納得するのではなく、なぜ正しいのか、理にかなっているのか考え、 本当に正しいのであれば、自分のものにすればいい。
 もちろん、自分で考えた結果、常識、セオリーは間違っている。 もしくは分が悪い考え方だと思えば、無視すればいい (分が悪い考え方にも関わらず、セオリーとして浸透しているものを単に無視するのではなく、 逆手にとれるようになるのが理想的である)
 人に言われたことを何も考えずに鵜呑みして、考えることをやめたら、人間終わりだ。 そして、セオリー、常識、定石いろいろ言葉はあるが、 これらは他人が考えた一つの考えにすぎないということだ。 (何回もいうがセオリーは基本で役に立つことも確かに多いが、 間違っているものも少なからずあるということだ)
 つまり、確率やセオリーはあくまでも基本であって、それが全てではないということである。

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